My story④離婚と病気と看取りの話

母育士「万智さくら」ってどんな人?

自己肯定感ゼロ人生からの脱却ストーリーをシリーズでお伝えさせていただいています

 

今日は【両親の離婚と病気と看取りの話】をお伝えさせてください!

 

教師として働きはじめる前、20歳の頃に親との関係が変化しました。

 

父が大きく荒れた一件をきっかけに、私から「家を出よう」と声をかけ、

母と妹と私の3人でようやく家を出ました。

 

もちろん、父が私たちを簡単に手放すはずはなく、

大がかりな離婚調停を経て数年後にやっと両親が離婚。

 

離婚調停中は父から、母や母方の祖父母の悪口ばかり聞かされ、

精神的につらい日々でした。

 

それでも、なんとか離婚が成立し、

父の暴言、暴力に怯えなくて良い環境を手に入れました。

 

ところがです。

ここにきてもまだ私には「いい子にしなければいけない」

という呪縛が残っていました。

 

「娘なんだし父のところにも泊まりに行ってあげなければ」

そんな責任感にかられ、父親の住む父の実家、母の実家、元の家、

3件の家に次々顔を出し、住所がはっきりしない状態に。

 

また母は離婚成立後に仕事が決まり、

 

 

ようやく第二の人生のスタートを切ったところで、卵巣がんが発覚。

悪いことに、見つかった時にはすでに末期のステージ4

 

手術がうまくいきがんを摘出できたものの、再発を繰り返し、

2年半ほど闘病を続けた後に59歳で亡くなりました。

 

病気がわかったころ、母は精神的に弱っていました。

「もし癌だったら生きていけない」

そんな風に言っていたため、

癌宣告や余命宣告は私と妹の二人で聞くことに。

 

妹は泣いていましたが、平気な顔をして笑顔を浮かべながら

「大丈夫だって」と母に伝えた私。

 

今思えば、母のために必死だったのでしょう。

ですが、当時の私は、平然とできる自分に恐怖を感じていました。

 

その後も、最後は母の実家で在宅介護をしていたのですが、

血が苦手で注射も見られない私なのに、母の点滴の針は抜ける。

訪問看護の看護師さんに看取りについて泣かずに質問できる。

亡くなった時はショックで絶望したけれど、その後喪主として気丈に振る舞える。

 

そんな自分が怖くて、

冷酷な気がして、

大嫌いでした。

 

教員としての生活をすでにはじめていた私は、

母の死を忘れるように仕事に打ち込みました。

ですが、とうとう身体への負担が大きくなり、

耐えられない頭痛に悩まされるように。

 

「公務員の仕事を辞めるのはもったいない」

と、周りからは休職を勧められたものの、

性格的にお給料をもらいながら休むのは無理だと判断し退職。

 

教員生活にピリオドを打ちました。

 

母の闘病生活、介護、看取りについては、

いろいろな気付きもあり、もっとお伝えしたいこともあるので、

いつかお伝えできる日がきたらいいな、と思っています!

 

今日も読んでいただき、ありがとうございました

My story⑤に続きます。(↓クリック↓)

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