母育士「万智さくら」ってどんな人?
自己肯定感ゼロ人生からの脱却ストーリーをシリーズでお伝えさせていただいています♪
今日は【両親の離婚と病気と看取りの話】をお伝えさせてください!
教師として働きはじめる前、20歳の頃に親との関係が変化しました。
父が大きく荒れた一件をきっかけに、私から「家を出よう」と声をかけ、
母と妹と私の3人でようやく家を出ました。
もちろん、父が私たちを簡単に手放すはずはなく、
大がかりな離婚調停を経て数年後にやっと両親が離婚。
離婚調停中は父から、母や母方の祖父母の悪口ばかり聞かされ、
精神的につらい日々でした。
それでも、なんとか離婚が成立し、
父の暴言、暴力に怯えなくて良い環境を手に入れました。
ところがです。
ここにきてもまだ私には「いい子にしなければいけない」
という呪縛が残っていました。
「娘なんだし父のところにも泊まりに行ってあげなければ」
そんな責任感にかられ、父親の住む父の実家、母の実家、元の家、
3件の家に次々顔を出し、住所がはっきりしない状態に。
また母は離婚成立後に仕事が決まり、
ようやく第二の人生のスタートを切ったところで、卵巣がんが発覚。
悪いことに、見つかった時にはすでに末期のステージ4。
手術がうまくいきがんを摘出できたものの、再発を繰り返し、
2年半ほど闘病を続けた後に59歳で亡くなりました。
病気がわかったころ、母は精神的に弱っていました。
「もし癌だったら生きていけない」
そんな風に言っていたため、
癌宣告や余命宣告は私と妹の二人で聞くことに。
妹は泣いていましたが、平気な顔をして笑顔を浮かべながら
「大丈夫だって」と母に伝えた私。
今思えば、母のために必死だったのでしょう。
ですが、当時の私は、平然とできる自分に恐怖を感じていました。
その後も、最後は母の実家で在宅介護をしていたのですが、
血が苦手で注射も見られない私なのに、母の点滴の針は抜ける。
訪問看護の看護師さんに看取りについて泣かずに質問できる。
亡くなった時はショックで絶望したけれど、その後喪主として気丈に振る舞える。
そんな自分が怖くて、
冷酷な気がして、
大嫌いでした。
教員としての生活をすでにはじめていた私は、
母の死を忘れるように仕事に打ち込みました。
ですが、とうとう身体への負担が大きくなり、
耐えられない頭痛に悩まされるように。
「公務員の仕事を辞めるのはもったいない」
と、周りからは休職を勧められたものの、
性格的にお給料をもらいながら休むのは無理だと判断し退職。
教員生活にピリオドを打ちました。
母の闘病生活、介護、看取りについては、
いろいろな気付きもあり、もっとお伝えしたいこともあるので、
いつかお伝えできる日がきたらいいな、と思っています!
今日も読んでいただき、ありがとうございました♪
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