なぜ私が教師としてではなく、
「母育士」として子どもとママに携わろうと考えたのか。
そこには、幼少期からの様々な経験、
人生山あり谷あり、
(というよりずっと谷だった⁈)
そんな私の半生が大きく影響しています!
今日は皆様にもっと万智さくらのことを
知っていただきたい。
勇気を出して、今まで話してこなかった
ことを伝えたい。
そんな思いから、私の生い立ちや
教師、ママになって感じたこと、
子育てへの想いをお伝えさせてください♪
【父の暴言暴力に怯える幼少期】
私の両親は、今どき珍しい政略結婚でした。
お互いに好きで結婚したわけではないこと。
父方の親せきは男尊女卑の考えが根強かったことから、
母と私、妹は女性であるという理由だけで、
「低俗の嫁をもらってやった」
「この姉妹はダメな子たちだ」
そんな風にさげすまれたり、
「頭が悪くなるから、母の実家にはいってはいけない」
と制限されたり、
きゅうくつな環境で幼少期を過ごしました。
そのような中でも、ばれないように時々実家に連れて行ってくれた母。
心から孫を可愛がってくれる祖父母宅での時間が、本当に幸せでした。
しかし、子どもなりに祖父母と会ってはいけないと、分かっていたのだと思います。
2歳の頃、父方の祖父母と出かけた時に、偶然母方の祖父母に出会ってしまう、
というアクシデントがありました。
私の態度で時々会っていることがバレるのでは?
そうヒヤヒヤする母を横目に、
当時の私は知らないふりで母方の祖父母のそばを通り過ぎたそうです。
2歳にして異常に気を遣いすぎる行動、自分でもびっくりします。
幼いころから周りの空気を読み、
トラブルが起きないようにつねに気遣う行動が身についていました。
というのも、父が私たちにしてきたのは、
ただ女性を軽視するだけではなかったからです。
私たちの生活は、父の暴言暴力によって支配されていました。
父の顔色を伺い、怯えて暮らす日々だったのです。
車で出かければ、渋滞やマナーの悪い車に激怒。
その怒りの矛先は相手だけでなく、母にも向けられます。
父が怒鳴り散らす姿が怖くて、車の足元にいつもうずくまっていました。
その他にも、食事の時にお茶をこぼしただけで叩かれたこと。
工作をしようとセロテープを出しただけで「無駄遣いだ」と怒られたこと。
母と一緒に車で父を迎えに行ったとき、携帯がない時代でうまく落ち合えず、
怒った父が母の髪を引っ張っていたこと。
父が寝た後に、音が鳴らないようひっそりセロテープを使うなど、
朝から夜までびくびくしながら過ごす日常。
忘れたいのに忘れられない、
数えきれないほどのつらい出来事がありました。
本来は、一番居心地がよく、くつろげるはずの家。
でも私にとって、家は安心して過ごせる場所ではなかったのです。
父に何を言われても、いつも味方でいてくれて優しかった母。
父を怒らせないために、子どもの生活のためにと、いつも苦労していた母。
そんな母の姿を見て、幼少期から、
「大変な思いをしているのだから、絶対に母に迷惑をかけてはいけない」
「私が母を幸せにしてあげなければいけない」
そんな強い想いを持つようになりました。
ここまでが私の幼少期。
読んでいただきありがとうございます♪
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